
1904年、柔道使節の一員として渡米した前田光世は異種格闘技戦を行い、ボクサーやプロレスラー、拳法家などと柔道普及のために戦いまくった。その後メキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着いた。この間柔道着着用の試合では1000勝以上し、無敗であった。
当時、ガスタオン・グレイシーが移民としてやって来た。ガスタオンの子供カーロス・グレイシーは体が弱かったため、ガスタオンは前田に「柔術で鍛えてくれ」と依頼した。カーロスは末っ子のエリオと共に稽古に励んだ。エリオは直接前田に柔術の指導を受けたわけではないが、前田の柔術を改良し、誰にでも使いこなせる術としてグレイシー柔術を完成させた。エリオ・グレイシーもまた、前田と同じようにグレイシー柔術を広めるため後に異種格闘技戦を行う。その中で圧巻なのは柔道家の木村政彦との闘いである。リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで棺桶まで用意された中での試合であった。わずか2R、得意の大外刈からアームロックで木村が決め、セコンドを務めたカーロスがタオルを投げ込み、木村の一本勝ちとなった。後日木村はエリオの闘魂について、日本人の鑑であると賞賛している。
後に1970年、グレイシー柔術はアメリカに渡り他流試合を行い、1993年、UFC(ノールール格闘技大会)を開催しグレイシー柔術最強を証明することになる。
最高の御身術を目指すグレイシー柔術の基本精神とは、 ”相手を傷つけず、自分も傷つかずに勝つ”ことである。グレイシー柔術は組み技を基本としている護身術が主であるが打撃への対策も視野に入れている。グレイシー柔術は大くくりでブラジリアン柔術とよばれる。ブラジリアン柔術は「柔術競技」「バーリトゥード」「護身術」を3つの柱にしている。稽古は「柔術競技」を中心に行われ、この競技において上達すると「バーリトゥード」で強くなるように考えられている。通常は寝技の組み技が主体で着衣を着て行う。「バーリトゥード」は原則着衣無しの『なんでもあり』の試合(総合格闘技)である。グレイシー柔術は何でもありのバーリトゥード、と考えがちだが、バーリトゥードと護身術を区別して捉えている。
安全面に配慮されたルールを採用することによって男女年齢問わずに参加できる生涯スポーツとしても広く普及している。




